とにかく書き続けるための哲学、

詩と雑記と落書きと音楽、

 

あと酒くらいあればいい、テンポの良い言葉のリズムと確かな自尊心のなれの果て、それくらいあれば書き続けられるのだろうか、

 

強く生きていけるという言葉の意味が今の私にはわからない、

 

金もなく、仕事もなく、いら立ちをただ溢れかえらせ続ける彼らに何と言えばいいのだろう、そのためにもう一度哲学という私自身だった初心に帰るべきだろう。

 

私自身が私自身を最も知らないでいる、私という最もくだらないスクリプトを打ち続ける人造ロボット、ただ人間賛歌を、出来る限り低い位置から語り続けるべきなのだろう、きっと人生には意味があるのだと、きっと人生には意味があるのだろうと、なかった時にどうするという心持ちも持たず、人間の能力に、脳の発達に、歴史の躍動にゆっくりと歩みを進めればいいのだろう。

 

十分に熟した自尊心が無ければ、新規性のある言葉や心は生まれてきそうにもない、何にしても取りこぼさず、エピクトテスの語るようにただ着実に着実に、誠実に誠実に事をなすべきなのだろう。言葉の制度を高めるために、歌の時と同じだ、もし私の脳内に行く末があるのであれば、それを求めて、生きている間にたどり着けるものか、たどり着けぬものかそんなことはわかりえないことだが、そんなことは私の知る故ではないと言って、ただ着実に事を成してゆくということ、

音楽の時もそうだった、どれだけ意味がないと言われても、嫌われてもだ、私は私が私と思った私のままに泳がせてやりたいと思ったのだ、言葉は二つの脳から生まれることはまだなく、これまで必ず一つの脳から発信されてきた、ただ地球上の物理法則を好んで楽しむということ。

 

どれほどに未熟な言葉たちであっても必ず行く先を見つけられると安堵していられるということ。

 

人間の感覚は言葉に、文章に埋め込まれるということ、それも一つの表現であるということ、私は私になりたい。

 

音楽を鳴らしたい、清楚な、和のある音音を連ねて、日本文学の歩みを続けていられる様な言葉の連鎖を歩みたい、心と言葉とが自然に即した形で流れに沿って広がりを見せてほしい。

 

アマザラシが新言語秩序で語っていたように人間の精神は言葉の積み重ねにより大きな調整がなされているのは間違いないのではないだろうかと思う、インターネット、人間同士の会話、本、ラジオ、媒体は何であれど、要は音と文字だ、この中で人間は明らかに調整を受ける、それも少しずつ、少しずつ、ゆったりと誰にも気づかれないように、それはとても静かに、けれど確かに起きている。

 

日本という文脈の中で私は少しづつでも歩みを進められるだろうか、私自身の人間、自然への賛歌としての視差を持ち得るだろうか、これは言葉の戦争、心の戦争、音音の戦争、なのだろうと思う。

 

これからさらに自殺者は増え続け、生きる意味を奪い合い、醜く朽ち果てる人々が増えるのだろうか、哲学に沿って、ホッブズの万人の万人による闘争の通りに、やはり安寧などどこにもなかったのだと言って、幾層にも分解され得て、幾人にもコントロールされ続ける私たちの脳々。

 

自身で、落ち着いた吐息で確かにそれを自分の意思でコントロールしたい、ちゃちな感情や言葉を重ねてでも、もし私の目がめくらで、遠くを眺めることができないでいるとしても、どうにか、歩み寄るべき道を探し出したいのだ。

 

私は私が今何かに埋もれていることを知っている、その重みをどうにか取り払わなくてはなされぬ事があるのだという事も。